会員ページへ

予約専用サイトへ

大江橋クリニックの誕生
〜 A History about Oebashi Clinic 〜

大江橋クリニックのあるNCビル正面

大江橋クリニック誕生までのエピソード

新しく誕生して成長する大江橋クリニックのイメージ

大江橋クリニックは、形成外科医長として京都市北区にある城北病院(現・北山武田病院)に勤務し美容外来・まぶた外来などを担当していた井上研と、関西医科大学皮膚科に籍を置きながら開業準備のため様々な病院で皮膚科だけでなく形成外科・美容外科の研修を重ねていた小川基美が、2005年に出会い、お互いの診療方針と患者さんに真剣に向き合う姿勢に深く共鳴し、一緒に仕事をする場所を求めて作り上げてきたクリニックです。

移転前の大江橋クリニックの玄関

自分で選んだ使い勝手の良い医療機器、コストに縛られない良質な医療材料を使って最善の治療をしたい。病院勤務では限界がある。なんとか自分たちの技量を最大限に発揮し、患者さんへの思いをストレートに表現できる場所を作りたい。そのためには、自分たちだけで開業するしかない。
そうした思いから、病院を退職して開業場所を探し始めたのは2006年のはじめ頃でした。
東京、名古屋、京都、神戸、様々な都市が候補に挙げられました。札幌にも福岡にも診療圏調査に行きました。銀座や表参道などは隅々まで歩き回りました。最終的な開業地の候補を東京ではなく大阪に絞り込むまでに1年近くかかりました。大阪の中でも様々な美容外科の林立する梅田周辺や心斎橋などではなく、もっと文化的に深みがあって落ち着いた場所を選びたいと思いました。

移転前の大江橋クリニックの1階ロビー風景

色々悩んだ末大阪城の見えるとある商業ビルのワンフロアを借りてクリニックを構えることを決心し、ほとんど契約寸前まで行った時に、大阪市役所のすぐ北、堂島川を渡った大江橋北詰に5階建ての新築オフィスビルができたことを知りました。

移転前の大江橋クリニックの2階待合室風景

大江橋北詰の東側一帯は、大阪天満宮の西にあたり西天満と呼ばれています。西天満は庶民的な下町が多い大阪市内にあって、かつて各藩の蔵屋敷が立ち並んでいた日本経済の中心地・堂島にも近く、今でも乾物や海産物の問屋などが多い裕福な土地柄で、骨董街として有名な老松町をはじめ古くからの上品で高級な店が並んでいました。歴史ある料亭もあればミシュランの星付きのレストランもいくつもあり、大阪高等裁判所・大阪弁護士会館や天満警察署もすぐ近くにあって夜遅く歩いても非常に安全だというのも決め手になりました。御堂筋に出たところにアメリカ合衆国の領事館もあるため機動隊車両が常駐し、町内を警察官が24時間巡回していますし、クリニックの数件先の交番にはパトカーも常時待機していますから、大阪府警の犯罪マップを見ても車上荒らしすらほとんど発生しない緑一色の地域(赤ほど危険)でした。
また、朝日新聞大阪本社や日本生命、セキスイ、電通、博報堂など日本を代表する企業の関西の拠点も徒歩圏にありました。日本銀行だけでなく三菱UFJや三井住友などのメガバンクの大阪中央支店もすぐそこです(当時)。クリニックの裏は川を挟んで大阪市役所が目の前に見えています。その東側には赤煉瓦が美しい中央公会堂、東洋陶磁器美術館、中之島ばら園が並び、100年の歴史がある堂島ビルや夜景の美しい水晶橋など、大阪でこれほど美しく落ち着きがあり客層が上品で夜も安全なところは他にないと思いました。

伊t四炎前の大江橋クリニックのフロアガイド

当初考えていたワンフロアを間仕切りするという通常のクリニックスタイルでなく、ビルをまるごと一棟使うという新たなコンセプトは、二人にとって色々な意味でチャレンジでした。
しかし、最上階にガラス張りの広くて明るい手術室、統一感を持ちながら各フロアで異なるインテリアデザイン、フロアごとに個室感覚で使える上品な待合室、ラグジャリーな環境でゆったりと過ごしていただけるエステ室、回転する施術台の周囲を取り囲むようなレーザー群、さまざまな過ごし方ができる数種類の椅子、壁一面の鏡といった様々なアイディアが形になり、従来のビル診療所とは一線を画するクリニックとしてスタートすることになったのでした。

全く同じデザインの収納棚も手術室とエステ室は色と材質を変えて制作。手術室は無彩色で反射を抑え、エステ室は暖色のピアノ塗装で高級感を演出した。

移転前の大江橋クリニックの5階手術室風景 移転前の大江橋クリニックの3階エステ室風景

思いを形にするための設計を誰に託すか。この後述べるように、大江橋クリニックには父と叔父が半世紀にわたって地域医療を支えた「井上医院」の後継という意味合いもこめたいと考えていました。そこで父たちの診療を支えた名建築「旧・井上医院」の基本設計者である日総建OBの叔父(日本の超高層建築の黎明期にKDD新宿ビルを設計した建築士です)に相談し、日総建関西支社の山下和源先生にお願いすることにしました。普段裁判所などの官公庁や学校など大規模な設計を主に行なっている大会社ですから通常なら名も無い個人医院の設計を受けてもらえるはずもないのですが、快く引き受けていただき、建設会社も大手の共立建設に決まりました。

いて年前の大江橋クリニックの3階エステ室前待合室

事務系のオフィスビルとして一旦竣工していたものをクリニック仕様に作り変えるため、玄関ドアを移設し空調の位置を見直し、重い医療機器を置く場所にはOA床をコンクリートで補強するなど大規模な改良を行いました。レーザー機器を数台入れるため電源は関西電力と交渉して最大限まで強化してもらい、エステ室や手術室に清潔なお湯を供給する温水器も屋上に増設しました。事務用の給湯室は患者さん用の洗面化粧台に入れ替え、スタッフ間のインカム通話を支えるWIFI環境も整備しました。
照明のついていなかった看板には夜間診療の際に初めての患者さんが見つけやすいよう高出力の照明を設置、緊急時の動線を確保するため非常階段のロックも電子的に解除できるよう工夫しました。
こうした数ヶ月に及ぶ様々な工事の合間に、患者さん用の椅子や鏡、仕事用の什器を選ぶため時間をかけて各地を歩き、日本に数点しかない家具や特注品、輸入品などを揃え、どこにもない大江橋クリニックだけの待合室を作り上げ、年末になってようやく開業に漕ぎ着けることができたのでした。

大江橋クリニックに近い水晶橋の夜景

ビルは大阪市役所の北向かい、御堂筋の大江橋北詰交差点から少し東側に入ったところにありました。クリニックの名称は、現在では美しくライトアップされるようになった「大江橋」から取ることにしました。
その後平成20年10月には京阪電鉄中之島線が開通し、その名も「大江橋駅」が誕生、そのすぐ後には大江橋が淀屋橋と共に重要文化財に指定されました。

大阪の地名としてはあまりメジャーではなかった大江橋も、大江橋クリニックの成長と軌を一にして徐々に多くの人に知られる地名になって行きました。

移転前阪神高速に上に掲げられた大江橋クリニックの看板 大江橋の上に大江橋クリニックの看板が見える様子

当時淀屋橋駅周辺には、半径500メートル以内に皮膚科も美容外科も一軒もありませんでした。私たちは、自分たちの医療をこの場所で実践するために高く旗を上げたいと思いました。
当時御堂筋の阪神高速沿いに並んで掲げられていた看板は、淀屋橋交差点から梅田方面を向いて左から「関西ペイント」「東芝」「リコー」「セキスイ」そして「アップル」でした。(現在は時代の趨勢に連れほとんどの看板が姿を消しています。)いずれも日本で、世界で一流の企業です。その中に割って入る形で、私たちはクリニックの看板を、思い切り背伸びして掲げました。

😅 後で当時の患者さんに聞くと、大江橋クリニックの看板の真下に本当に大江橋クリニックがある、とは思っていなかった人が多く、クリニックのビルを見つけるのに苦労したとのことでした。例えば大阪市役所の北側の窓からは、クリニックの看板が当時真正面に見えたのですが、市役所の職員さんですら川の向かい側にクリニックがあることを知らなかったといいます。なんで???
ある患者さん「そりゃそうでしょ、ふつうTOSHIBAやRICOHの看板の真下に東芝本社やリコーの工場があると思います?APPLEの看板の下にAPPLE STOREもないでしょ?」

大江橋クリニック3階エステ室前待合室

個人開業の診療所の名称は「苗字+医院かクリニック」と決まっています。保健所がそのように指導しているからです。しかし院長の名字は井上。井上医院は大阪だけで50軒以上あり、新規開業してもインパクトはないし混乱が増すばかりです。どこの井上医院ですかと言われるに決まっています。
そういうわけで井上医院でも井上クリニックでもなく、大江橋の近くなのだから大江橋クリニックではどうだろうと考えたのですが、「地名+クリニック」は「その地区で一番良い医療施設という『誤解』を与えるので」好ましくないと言われてしまいました。しかしそこで引き下がるわけにはいきません。大阪市保健所には「大江橋は橋というピンポイントの名前であって付近一帯を指す地名とは言えない」という理屈っぽい理由書を出して「大江橋クリニック」という名前を認めてもらいました。(当時まだ京阪中之島線はなく、大江橋駅という名前も決まっていませんでした。大江橋が重要文化財に指定される前で、淀屋橋の北にある橋の名前を知っている人はほとんどなかったので、その理由にならないような理由で通りました。)
開業当時はどこに行っても大江橋を名字と思われて、大江橋先生と呼ばれて、それはそれで困ったものでした。

2013年に西天満1丁目に移転しました

移転直後の大江橋クリニックエントランスを飾った花

大江橋クリニックはその名の通り大江橋の北詰すぐに誕生したのですが、開業から5年あまりで難波橋のたもとにある大阪JAビルの中に移転することになりました。交通の便もよく5階建ての独立した建物として看板も大きく掲げた「目立つ」クリニックから比較的短期間でオフィスビルの中に隠れるように移転したのにはいくつかの理由があります。

新年に門松の飾られた大阪JAビルの玄関

2011年の東日本大震災は日本全国に大きな影響を与えました。各企業の大阪支社・本社が集中している淀屋橋・大江橋周辺も例外ではなく、患者さんとして通院されていた多くの中堅社員が東北地方に救援に行き、あるいは東京からの救援に伴って足りなくなった東京本社に移動し、周辺の昼間人口が激減しました。それに引き続いてオフィスやレストラン、各種テナントの移転閉鎖が相次ぎ、活気のあった大江橋周辺もひっそりとして人通りがなくなりました。大江橋クリニックから御堂筋を渡ると有名な歓楽街「北新地」がありますが、そこも灯が消えたように静まり、クリニック周辺の大きなビルがいくつも丸ごと閉鎖・取り壊され空き地もたくさんでき駐車場に変わって行きました。夜も安心して歩ける街ではなくなり、犯罪者らしき怪しい人を見かけたりするようにもなりました。お付き合いのあった銀行の支店も閉鎖・移転し交番・警察署もビル建て替えに伴って一時遠くに移動してしまいました。
患者さんの数自体はむしろ増加しましたが、来院時間帯が変わり夕方の早い時間帯に集中して激混みとなり、2、3時間待ちが常態となりました。いわゆる客層も変わり、長い待ち時間にイラついて怒鳴ったりトラブルを起こす人も現れました。1階の受付スタッフだけでは対応できず、2階の診察室から応援に行かなければならなくなったこともありました。安全な場所で落ち着いて診療したいという思いが強くなり、翌年には移転先を探して近くのビル巡りをするようになりました。

移転前の大江橋クリニックの5階手術室

各フロアを独立して使うためには、各フロアに常時スタッフが必要です。患者さんはエレベーターで移動するため、移動先のフロアで準備ができていなかったりドアがロックされていたりすると患者さんも困るしセキュリティ上も問題です。5階建てのため地下のスタッフルームを含めて6つあるトイレの清掃と見回りも結構大変でした。誰かが潜んでいるかもしれないし、気分が悪くなったり倒れているかもしれない。チェックインした患者さんとチェックアウトした患者さんの数を常に把握していないと災害時などに困ることになります。

移転前の旧大江橋クリニックの2階待合室

川沿いにある建物だったので、地下の排水にはポンプで揚水する必要がありましたが、故障したのに警報が鳴らず、ビルの構造と電気の配線に欠陥があったことがわかったりもしました。(警報が鳴る前にブレーカーが落ちて警報装置が停電してしまう。)電力の制限もあり全てのレーザーを一度に立ち上げるとエアコンのブレーカーが落ちることもわかりました。
1番の問題点は、小さなビルだったのですぐ脇を通る阪神高速のためにビルが絶えず揺れていることに、だいぶ経ってから気づいたことでした。この揺れはわずかなため、普通に座って仕事をしていたり立っている時には全く感じないのですが、寝ているとわずかに揺れていることが感じられるのでした。明るい日の入る5階に手術室を作ったことが裏目に出ました。上の階ほど揺れが大きく、2階の診察室ではわからないが5階の手術台に寝て手術を受けていると、小刻みな揺れで次第に車酔いのように気分が悪くなってくるのでした。
長時間の手術後に気分が悪くなる患者さんが時々いて、手術台をわずかにヘッドダウンさせてみたり術後にソファーで休息してもらったりしていましたが、その理由がなかなかわからないでいました。ある時ふと思いついて自分で手術台に寝てみて初めて揺れていることに気づいたのでした。

旧大江橋クリニックのエレベーター前フロアガイド

次の移転候補は大きなビルのワンフロアを間仕切りするという通常のスタイルで行くことにし、移転先を探したのですが、これは開業時のビル選びよりもっと大変でした。分院なら問題ないのでしょうが、近畿厚生局から医療の継続性(今までの患者さんにそのまま通ってもらえる)という条件が付けられたのです。

大江橋駅から移転後の北浜方面を望む

移転しても今までと同じ大江橋クリニックとして診療を続けるためには、診療圏(患者さんが通ってくる範囲)が同じでなければならないことはわかっていました。ですから移転先としては、移転前のクリニックから徒歩で移動できる範囲の中之島から梅田までの間、1キロメートル以内くらいだろうと簡単に考えていてさまざまなビルを見て回ったのですが、実は同じ診療圏、診療の継続性とはもっと条件が厳しくて、単純に距離が五百メートルだからいいというわけではなく移転先との間に同じ診療科のクリニックがあってはいけないのだと言われました。
患者さんが新しいクリニックに移動する間の道に別のクリニックがあったら、患者さんはそこで止まってしまい、わざわざそのクリニックを通り越して新しいクリニックにまで行かないだろうというのです。無茶苦茶な論理ですが、保険診療ではクリニックの間に医療格差はなくどこでも同じ診療をすべきだということになっていますから、より近い方に行くはずだと言われると反論できないのです。(いえ、患者さんは大江橋クリニックの方に来るはずですと言えば、大江橋クリニックの方がその間にあるクリニックより優良だと言い張ることになり、保険診療の趣旨に反すると言われてしまいます。)

クリニックのエントランスのイメージ

移転先との間に皮膚科や形成外科がない、という条件がつくと梅田方面はほぼ無理でした。南に下がるのも難しく(中之島を越えると北区から中央区にかわり医師会にも入り直さないといけないということもあった)中之島か堂島川の北側にほぼ限られます。
それでもいくつか候補地はありましたが、綺麗なビルで使い勝手も良いが水回り工事ができず洗面台が作れなかったり、ガラス張りの壁面に手を加えることができずレーザー室用の遮光ができなかったり、エレベーターが狭く避難経路に問題があったりとなかなか全ての条件をクリアできませんでした。

大江橋クリニックのあった大阪JAビル

JAビルに入居できたのは本当に運が良かったと思います。私たちが移転を決める直前まで、現在クリニックのある場所は大阪市の水道局が8年以上使っていて、ちょうど契約更新の時期に当たっていたのです。少しでもタイミングがずれていれば、今の大江橋クリニックは全く別のものになっていたことでしょう。

2025年に中央区に移転しました

完全予約制でひっそりと診療していると、もっと患者さんとの関係を濃密に、時間をかけた丁寧な診療を行いたくなりました。
インバウンドでクリニックの周辺も外人観光客で溢れ、ビル内にも警備の目を逃れた見知らぬ人が入ってくるようになり、いきなり用もないのに扉を開けて侵入してくる人も現れました。

もっと静かな環境で、コンパクトな診療がしたいと考え、オートロックで部外者が侵入できず、通院していることが他人にしられない場所にクリニックを移そうと考え始めました。
そして満を持して、大江橋クリニック誕生の地・大江橋からほぼ真南にあたる、中央区の平野町に移転することにしました。

現在試行錯誤中ですが、よりアットホームで気楽に過ごしていただける空間を作ろうと努力しています。これからも新たな大江橋クリニックをよろしくお願いいたします。

大江橋クリニックの前身

昭和51年度第8回中部建築賞入選作品

中部建築賞をもらった井上医院の写真

これが父が叔父と共同で診療していた、正真正銘の井上医院。カラー写真ではないのが残念です。中部建築賞もいただいた4階建ての建物は外観こそ綺麗でしたが老朽化が進み、数年前に解体されました。
設計者は竹中建設となっていますが、基本の図面は日総建の叔父が引き、地元の建設会社に実施設計を引き受けてもらったのでした。

中部建築賞入賞作品、井上医院

昭和51年、当時株式会社日総建の役員をしていた、建築家の叔父・故・中村晃の基本設計により竣工した当時の井上医院。写真では見て取れないが、壁面煉瓦色陶板タイルは叔父が1枚ずつ選別して色むらの少ないものを選んで施工されており、同種の建物にはない落ち着いた色調で周辺の緑に溶け込むよう配慮されました。

将来の拡張や増築、メンテナンスに備え様々な工夫が施されており、水道・電気回路なども独立した2系統が重複して配管されるなど緊急時にも対応できる冗長性を備えていました。地上4階建ですが基礎は洪積層を貫いて花崗岩の岩盤に達し耐震性を確保(現在は当たり前になっていますが、当時の耐震基準を遥かに凌駕していました)。当時主流となっていた杭打ち機による鉄骨打ち込みでなく、周辺環境に配慮した騒音の少ない地盤の掘り下げとボーリングによる基礎孔掘削、コンクリート杭の挿入といった経費より安全性・静粛性を優先した基礎工事も、地域の賞賛を浴びました。いずれも、当時最新・日本初となる超高層ビル「KDD新宿ビル(現・新宿KDDIビル)」を設計し、関東大震災の10倍の地震に耐えると言われる耐震性を実現した叔父ならではの発想でした。

同年の中部建築賞受賞作品はほとんどが地方公共団体、学校法人、一部上場企業によるものであり、個人の建築物としての受賞は珍しい事でした。

下の写真は解体され、跡地が公園となった「井上医院」跡。
父の遺志でビル解体後の跡地を薔薇の花壇を配した公園として整備し、地元に無償で寄贈されました。祖父も公民館や図書館を建てて寄贈していますので、それに倣ったものです。

跡地が公園となった旧井上医院

現大江橋クリニック院長・井上 研の父・故・井上武雄は、昭和38年7月1日に「井上外科医院」を開業し、その後亡き叔父・耳鼻科医の井上孝雄と協力して「外科耳鼻科・井上医院」と改称して共同で診療にあたっていました。昭和52年には入院病床も拡張した新館(上記)を建築して移転。
休む事なく診療を続けて来た「井上医院」は、2009年12月末をもって「休診」し、その後閉院してその役割を終えました。
父と叔父によって半世紀近くにわたって維持された「井上医院」の、地域医療をにない患者さんを大切にする精神は、名称と場所を新たに2006年12月1日開業(保険診療は2007年1月4日開始)した「大江橋クリニック」に発展的に受け継がれています。

井上医院があって 現在の大江橋クリニックがあります

移転前の初代大江橋クリニックの玄関。当初事務所として建てられたためバリアフリーではなかった。

移転前の大江橋クリニックの玄関

父は東大と並んで古くから脳研究所のあった新潟大学医学部を卒業し、戦後まだ日も浅い当時日本では珍しかった「脳神経外科医」として医師の活動をスタートしました。学位論文でもある「小児脳腫瘍の臨床的研究」は新潟大学脳研究所で行われた小児脳腫瘍の治療を分類評価したもので、当時の脳神経外科研究の標準的引用文献となったようです。
一方で皮膚科にも興味を持ち、見学にいったところ翌日には皮膚泌尿器科学教室に机と椅子が用意されていて困ったという話を聞いた事があります。

院長の父が勤務していた病院

その後、秋田県、山形県、新潟県などの基幹病院で一般外科医としても研鑽を重ね、昭和38年に郷里に帰って「井上外科医院」を開業しました。(写真は開業直前、外科部長として勤務していた新潟の病院)

当初、外科、肛門科などを標榜して診療を開始した「井上外科医院」は、その後同じ新潟大学医学部出身の耳鼻科医である叔父を迎えて、「外科・耳鼻科 井上医院」となり、更に放射線科、皮膚科、内科と診療科を増やして発展して行きました。
叔父の病死により耳鼻科診療は休止となりましたが、半世紀の間多くの患者さんに恵まれ、長く診療を続けて参りました。

大江橋クリニックのエントランスを飾るカッシーナの椅子

まだ形成外科という言葉すらなく、概念も定かでなかった当時から、父は「手術の傷跡をきれいに治す」ことを心がけており、米国で発表された論文に触発されて皮下連続縫合による皮膚表面に糸の跡を残さない手術などを行ったり、美容外科的な「でべその手術」などの各種手術法を工夫してきました。
また、現在の大江橋クリニックにも受け継がれている「痛くない注射のしかた」を工夫し、井上先生の注射は痛くない、と患者さんの評判を得ていました。

脳外科医としての修練を積んだ父は、脳の構造と機能に関心を持つばかりでなく、なぜそうなるのか、理論的背景を重視した診療を行ってきました。その考え方は、現在大江橋クリニックの院長となった私にも大きな影響を与えています。

大江橋クリニックのこれから

大江橋クリニックが誕生した2007年、まだ私たちは気づいていませんでしたが、世界は大きく変わろうとしていました。それから10年以上が経ち、世界の急激な変化とともに、大江橋クリニックも成長を遂げました。

大江橋クリニック開院チラシ iPhoneが発表された時のスティーブ・ジョブス

私たちが開業した2007年は、実は世界が変わった年でもあります。

1月4日、大阪市内の各家庭や会社では、お正月休みが終わって初出勤の朝の新聞の折込チラシの一番上に、「今まで治療をあきらめていませんでしたか?」という大江橋クリニックの開院チラシを目にした筈です。(このチラシを持ってタクシーで駆けつけてきたくださった患者さんもいました。)

奇しくもその5日後、1月9日、所はサンフランシスコ。世界を変える衝撃の発表が行われました。その会場には、こんなキャッチコピーが掲げられていました。

The first 30 years were just the beginning. Welcome to 2007.
(これまでの30年は序章に過ぎなかった。ようこそ、2007年へ。)

そうです、この年、iPhoneが世界に向けて発表されました。

17年前、iPhoneを知っている人は誰もいなかった

世界は初めてiPhoneを知り、今ではiPhoneをはじめとするスマートフォンは世界を全く変えてしまいました。
最近またジョブズのスピーチがAIが世界を変えるという予感と共に見直されています。20年ほど前には、どこか初めてのところに行くためにはあらかじめ地図をファックスして貰わなければなりませんでしたし、作成した文書を安全に相手に送るためには封筒に入れて書留にするため郵便局に持って行かなければなりませんでした。今では現金で支払いをしたことがなく封筒に郵便切手を貼ることも知らず、EメールやDVDすら古くて使い方がわからない世代が大人になろうとしています。

17年前、大江橋クリニックもこの世に生まれた

世界を変えたAppleと比較するのは大げさすぎるかもしれませんが、私たち大江橋クリニックも2007年に生まれ、その後の10数年で確実に地域医療を変え、美容医療の世界に美肌レーザーという概念を普及させ、眼瞼下垂診療を身近なものにし、それまでの十数年培った志を徐々に実現してきました。
周辺に美容外科どころか皮膚科もアレルギー科もなく無医地区に近かった淀屋橋〜北浜界隈は、今では10軒近くの美容クリニックが進出してそれぞれ専門的な医療を提供する美容クリニック激戦地になりました。タワーマンションが多数新築され、オフィスビルも大半が新築・改築されました。(現在も淀屋橋ツインタワーをはじめ次々と新しいビルが建設中です。)
美容診療の進化に関しては、美容レーザーといえば私たちが始めた複数のレーザーを照射してダウンタイムのない美肌を得る方法が今では一般的になりました。各都市に眼瞼下垂の手術ができる美容クリニックがたくさんできました。美容外科で立ち耳の手術ができるところも増えてきました。様々な美容治療が、患者さんが施設を選べるように、それどころか多様化し選択肢が多すぎて迷うほどになってきました。
患者さんが自分に合った医療機関を自由に選べる環境になってきたのですから、大江橋クリニックも、私たちの希求する医療を実践するために、診療の対象を得意分野に絞り、これからも進化を続けていきたいと願っています。

大江橋クリニックのある大阪JAビル

今後の10年、また世界は大きく変わることでしょう。
10年後私たちも変わっているはずです。医療のAI化は進み、遠隔診療もロボット手術も普及しているでしょう。通院しなくても自宅で診断を受け、薬を送ってもらう世界はすでに現実のものとなりました。医師のいない医療施設に通ってレーザーで皮膚を切開したり、自動縫合器で縫ったり、テープを貼ったりもできるかもしれない。
しかし、皮膚の微妙な手触りやかすかな匂い、湿り気や厚さは多分まだ、間に電波を介しては伝わらないでしょう。メスで切開を入れる時の手応えから瘢痕の流れを知り皮膚の伸びやすい方向を予測し、皮弁のデザインに微調整を加えるロボットは開発されないでしょう。照射した瞬間の反応を見てレーザーのハンドピースを僅かに遠ざけたり、オーバーラップする範囲を数%増やしたりする自動レーザー照射機は実現しないでしょう。

永井階段をひたすら登って高みに至るイメージ写真

誰でも同じことができるように医療は進化していきますが、それでも職人技は残るはずです。その時こそ大江橋クリニックの強みは発揮されていくと思います。
その時どこで診療しているかはわかりませんが、10年後の大江橋クリニックは今よりもステップアップしていると信じています。今はまだ実現していない私たちの医療の理想形を、インターネットを通じてだけでなく、通院される皆様に直接お伝えできたらと思っています。

これからも大江橋クリニックをよろしくお願いいたします。